国際バレエアカデミアの沿革
2日本バレエのパイオニア、東京小牧バレエ団名誉団長 小牧正英(1911-2006年)は東宝・小林社長助成のもと、東宝専属小牧バレエ団として年間200回公演以上こなした時代もありました。昭和21年から今日までの間、栄枯盛衰は世の常、紆余曲折もありましたが、伝統を継承しつつ時代に合わせた活動をしてまいりました。
小牧正英が第二次大戦中に踊っていた上海バレエ・リュスは、フランス租界にあるライセアム劇場で公演していました。名プロデューサー、ディアギレフの死によって解散したバレエ・リュス(ロシア・バレエ団)のメンバーや革命を逃れ亡命したロシア人ダンサー、イギリス、イタリアから参加した舞踊家たちで組織されていました。主に上演していたのはバレエ・リュスおよびマリインスキ劇場のレパートリーです。小牧正英はハルビンのバレエ学校を1939年に卒業後、上海バレエ・リュスの招聘を受けて1940年から46年の終戦までソリストとしてほとんどの作品を踊りました。1944年、「ペトルゥシュカ」の東洋初演で表題役を踊り、この時に芸名を小牧正英としました。この舞台はフランスの評論家(ニジンスキーの「ペトルゥシュカ」を直接見ている)から「主役のペトルゥシュカを踊っているのは誰だ?」「日本人のコマキというソリストです」「まるで、ニジンスキーが東洋人になって、戻ってきたようだよ」そう絶賛されました。以来小牧は上海一の人気を誇るダンサーとなり一躍名前が知れ渡りました。
小牧は上海より帰国(1946年4月)してまもなく1946年8月9日〜30日まで帝劇で行われた「白鳥の湖」全幕日本初演において演出・振付を担当し、センセーショナルな脚光を浴びました。それ以降も古典バレエ(「眠れる森の美女」「ジゼル」ほか)、近代バレエ(「シェヘラザード」「ペトルゥシュカ」「火の鳥」ほか)の数々を日本初演してまいりました。
小牧バレエ団の業績は皆様ご存知の様に輝かしいものでした。今では考えられないロングラン公演を行い、観客動員の記録を残し、戦後のバレエブームを起こしました。文部大臣賞をはじめ数々の賞を受賞しました。小牧が原動力になって我が国に於ける古典バレエの移植・普及の成功をみるに至ったと自負しております。その間、谷桃子(谷桃子バレエ団創設者)を筆頭に、太刀川瑠璃子(スターダンサーズ・バレエ団創設者)、小松原庸子(小松原庸子スペイン舞踊団代表)ほか、数多くの日本の舞踊界を代表する舞踊家・指導者を輩出しております。また岸恵子、十朱幸代ほか演劇・映画界においても多くの方々が小牧バレエ団でレッスンし巣立っていかれました。芸能界にも多大な影響があったことと思います。
国際バレエアカデミア・バレエ団新たな歩み
1987年 | 菊池唯夫は菊池宗のフランスからの帰国を機に「東京ユニバーサル・バレエ団」バレエ団を立ち上げ活動開始。小牧正英も芸術監督(演出・振り付け)で参加。 | ||||
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1990年 | 活動を終了した小牧バレエ団の伝統を持続するために、「東京ユニバーサル・バレエ団」は、かつての小牧バレエ団の主要メンバー協力の下、小牧正英を名誉団長、菊地唯夫を団長とする「東京小牧バレエ団」として新たにスタート、「上海バレエ・リュス」、「小牧バレエ団」のプログラムを承継する活動に入る。ほとんどの作品を上演。 | ||||
1996年 | 菊池唯夫が逝去。菊池宗をリーダーとして活動を継続するようにという小牧正英の指名を受け、副団長の菊池宗が団長に就任してスタートする。 | ||||
2009年 | 先人たちへの敬意と遺志を継ぐと共に更なる発展を求め、多くの賛同者および協力者の下、バレエ団の運営母体として「特定非営利活動法人国際バレエアカデミア」を設立。同法人は、日本バレエの歴史資料及び「上海バレエ・リュス」、「小牧バレエ団」の作品の保存・継承事業や国際交流活動を目的とし、菊池宗をリーダーとして、伝統を踏まえた新たな歴史をスタートさせる。 | ||||
2012年 | 日本・モンゴル国交樹立40周年記念公演(平成24年度文化庁国際芸術交流支援事業)をモンゴル国ウランバートルで行い、「モンゴル国文化文部大臣賞」を菊池宗が受賞。 | ||||
2015年 | 菊池宗が国際交流に特に顕著な成果があったと認められ、外務省より「平成27年度外務大臣賞表彰」を受ける。 | ||||
2017年 | 公演の名称もバレエ団・学園の運営母体である法人名「国際バレエアカデミア」に改称。 | ||||
2022年 | 4月より、バレエ団の団長は菊池宗から森山直美に引継がれ新体制となる。さらなる発展を求め、時代を超え、伝統を残し、伝えていくことを目標とする。 |




